思考のための「余白」|僕がロルバーンミニという名の相棒に辿り着くまで

自分に寄り添う「道具」を探す旅は、自分自身の輪郭を確かめる旅なのかもしれない。

日々の暮らしの中で、ふと、思考が足を取られる瞬間はないだろうか。

浮かんだはずの言葉が、捕まえる前に霧散してしまう。出会った人の名前が、記憶の表層を滑っていく。そんな、ほんの小さな、けれど無視できない澱(おり)のようなもの。これらは、日常に潜む微細な「摩擦」だ。

僕にとってその摩擦は、長らく「メモ(帳)」と「名刺(入れ)」という二つの習慣に象徴されていた。

持つべきだと分かっているのに、馴染まない。必要だと理解しているのに、好きになれない。

ショルダーバッグ一つで、思考も身体も、軽やかにありたいと願う僕にとって、それらを携帯する行為そのものが、無意識の重りとなっていた。物理的な重さ以上に、思考の柔軟性を奪う精神的な重さとして、僕の内に沈殿していたのだ。

そんなある日、僕は一つの小さなノートに出会った。

デルフォニックス社の「ロルバーン ポケット付メモ ミニ」。
この手のひらサイズの道具が、僕の思考の習慣を、そして日々の手触りさえも、静かに変えていくことになった。

これは、単なる道具の紹介ではない。

僕が、いかにして思考のためのささやかな「余白」を手に入れ、自分だけの快適な「習慣」を紡ぎ始めたか、その探求の記録である。

目次

僕が、確かな一冊を持てなかった理由

何かを「選ぶ」という行為は、何かを「手放す」ことから始まる。
僕がこの小さなノートに行き着く前、そこにはいくつかの手放したい「不便」があった。
あなたも、同じような経験はないだろうか。

第一に、僕は「こまめにメモを取る」という行為自体に、ずっと馴染めずにいた。仕事上、メモ帳をいくつか試したが、どれも数ページで使われなくなり、鞄の肥やしとなった。なぜか。それは、その行為が僕にとって「快適」ではなかったからだ。取り出す手間、書く場所を探す煩わしさ。そして何より、その道具自体に愛着が持てないという事実。心が「良い」と感じない道具を、使い続けることはできなかった。

第二に、心から愛せる「名刺入れ」に出会えなかったことだ。あなたも、身の回りの道具を選ぶとき、機能だけでは満たされない「何か」を探してしまうことはないだろうか。機能がそのまま美しい形となり、長く使えるものだけが持つ静かな物語を宿した「本物」。そんな道具を求めてしまう僕にとって、市場に溢れる選択肢は、むしろ迷いと妥協の種でしかなかった。

最後に、休日に持ち歩くのは、ほとんどスマートフォンと財布だけ。この身軽さは、僕が重んじる「自律性」の象徴でもある。場所に縛られず、思い立った時にすぐ動けること。そのフットワークの軽さを犠牲にしてまで持ち歩きたいと思えるほどの価値を、従来のメモ帳や名刺入れに見出すことができなかったのだ。

これらの理由はすべて、僕が自分自身の価値観に忠実であろうとした結果の、必然的な帰結だったのかもしれない。

小さな相棒との対話 | 僕だけの「使い方」を紡ぐ

このロルバーンミニは、僕にとって完成された道具ではない。

むしろ、対話し、関係性を築きながら、自分だけの相棒へと育てていく「余白」に満ちた存在だ。

5枚のクリアポケットが標準装備されている
名刺を数枚忍ばせる

まず、長年の懸案だった名刺入れの問題。
これは巻末に標準装備された5枚のクリアポケットが、実に静かに解決してくれた。いただいた名刺を一時的に預かり、自分の名刺を数枚だけ忍ばせる。革の名刺入れが持つ重厚な儀式性から解放され、より軽やかで、個人的な関係性の始まりを演出してくれるようだ。
それだけで、僕の心は随分と軽くなった。

次に、メモを取るという行為の「快適化」。ここからが、僕とこのノートとの対話の始まりだった。

板ガムの紙を丸くしてペン入れを自作
厚紙にホチキス止め
握ってみるとこんなに小さい。書いた字が読めれば良い

ポケットに入りやすいように、OHTOの極細ボールペン「minimo」を差し込んでいる。このペンの、短く凝縮された金属の塊のような感触と、細身ながら確かな書き味が「手が喜ぶ」のだ。

ポストイット付箋 強粘着 75×50mm

表紙の裏には、数枚の付箋と4つのクリップ。これは明確な目的があるわけではない。「いつか、何かの役に立つかもしれない」という、ささやかな備えだ。

そして、携帯ストラップで取り付けられた小型のボイスレコーダー。これは「いつか」ではなく、常に僕と共にある。言葉にならない感情や、キーボードを打つより早く思考が駆け巡る時、これを起動させる。

これらは、僕が価値を置く道具たちが、互いに連携し機能する、僕だけの「思考の生態系」だ。
このカスタマイズのプロセスこそ、僕の「自律性」を満たし、自分だけの快適な環境を創造する行為そのものなのである。

この一冊が持つ、静かな哲学

僕がこのノートに惹かれる理由は、その機能性だけではない。
むしろ、その背後に流れる静かな「哲学」と「物語」に、僕自身の価値観が深く共鳴したからに他ならない。

インクを優しく受け止め、決して裏切らない上質な紙。その一枚一枚に刻まれた5mm方眼のグリッドは、思考を整えるための控えめなガイドラインだ。思考の断章を、ためらいなく切り離せるミシン目。そして、不安定な場所でさえも筆記を支えてくれる、頼もしい厚手の台紙。この質実剛健さは、僕が幼い頃から惹かれてきた「手が喜ぶ」感覚、そのものだ。

その全てが、「書く」という行為への深い敬意と理解の上に成り立っている。

そして後日、その名前の意味を知った時、僕の中で全てが繋がった。ロルバーン(Rollbahn)は、ドイツ語で「滑走路」を意味するのだと。
僕たちの頭の中に絶えず生まれては消える無数のアイデアが、確かな言葉や形として世界に飛び立つための、静かで美しい滑走路。

ロルバーンを生んだデルフォニックス社が、「文化は、1本のペンと1枚の紙から生まれる」という思想を掲げていると知った時、僕はさらに確信を深めた。彼らは文具を単なる道具ではなく、「文化の入り口」と捉えている。
この小さなノートは、僕自身の文化、僕自身のキュレーターを始めるための、ささやかな、しかも完璧な入り口なのだ。

かつて、中国の文人・欧陽脩は、思索を深めるのに最適な場所として「三上(さんじょう)」馬上・枕上・厠上を挙げた。

ボクの断片」のカテゴリーでも詳しく綴っているが、思考とは、机の前で厳粛に始まるものではなく、リラックスした不意の瞬間にこそ、その翼を広げるものだという教えだ。

ポケットに忍ばせたこの小さな相棒は、現代を生きる僕らにとっての「三上」を実践するための、最高の道具ではないだろうか。

探求の、その先へ

日々の喧騒の中で、ふと訪れる静寂の瞬間。そこで生まれた思考の小さな芽を、消え去る前にそっと掬い上げる。そのささやかな営みの繰り返しこそが、自分自身の物語を「紡ぐ」ということなのかもしれない。

メモ帳も、名刺入れも持たない。

その代わりに、僕のポケットにはいつも、思考のための小さな「余白」がある。このミニマルで快適なスタイルが、今の僕には、とても自然なものに感じられる。

常に持ち歩きながらメモしていたことで、いつかネタになった話でも伝えていきたいものだ。

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