失われゆく知的財産への焦燥
ひらめき(アイデア)というものは、炭酸水から立ち上る泡に似ている。
ふとした瞬間に脳の奥底から現れては、パチンと弾けて消えてしまう。
それはブログの構成案であったり、仕事上の難問を解く鍵であったり、あるいは人生の進路を左右するような重大な気づきであったりする。多くの場合、こうした泡は、ペンもノートも持っていない無防備な瞬間に限って、鮮烈に訪れる。そして、記録する術を持たぬまま霧散してしまったとき、言いようのない喪失感に襲われる。
それは単なるペンやメモの紛失ではない。ボクの人生を豊かに彩るはずだった知的財産が、この宇宙から永遠に失われてしまったことへの敗北感だ。
この消えゆく泡を逃さず、いかにして生活の動線の中に網を仕掛けて捕まえるべきか。その問いへの答えを求めるプロセスが、ボクの日常を知的生産の場へと変貌させていった。
古人の智慧|三上(さんじょう)
アイデアが湧きやすい場所として、古くから語り継がれてきた言葉がある。北宋の文人、欧陽脩(おうようしゅう)が提唱した三上だ。
文章を練るのに最も適した3つの場所。それは馬上(ばじょう)・枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)。すなわち、①馬に乗っているとき、②布団の中、そして③トイレの中である。
これらに共通するのは、脳が特定のタスクに100%支配されているわけではなく、かといって完全に停止しているわけでもない、思考の空白が生じている状態だ。
馬に揺られているとき、意識は目的地へと向かいながらも、身体は受動的なリズムに身を任せている。布団の中やトイレも同様だ。何かに没頭しているわけでもなく、かといって意識が途切れているわけでもない。このアイドリング状態こそが、脳の奥底に眠る断片的な記憶やアイデアを表面へと浮かび上がらせる。
1000年以上前の文人が見出したこの知恵は、情報過多な現代を生きるボクたちにとっても、未だに色褪せない真理を含んでいる。
現代版三上と環境設計
しかし、現代において馬に乗る機会はまずない。ボクたちは欧陽脩の知恵を、自分たちの生活様式に合わせる必要がある。
ボクにとっての馬上は、危険ではあるが間違いなく車の中にある。
ハンドルを握り、安全運転というタスクを処理しながら、その下層では日頃の課題が自由自在に形を変えながら漂っている。

この時間を逃さないため、ボクはボイスレコーダーのTALIX & Ding Talk A1を導入した。これらを運転席からすぐ手の届く場所に配置し、浮かんだ言葉をそのまま空中に放り投げるように録音する。録音ボタン一つ最小限の動作だけだ。
また、枕上や厠上においては、ボイスレコーダーとともに、スマートフォンも欠かせない。スマートフォンは世界と繋がる強力なポータルであり、ボクたちの知性を拡張してくれる道具だ。
しかし、泡を拾い上げるためには、操作の多さがノイズになりかねない。そこでボクは、GalaxyのカスタマイズアプリGood LockのRegistarを活用している。

セキュリティロックを解除した状態で、スマートフォンの背面を2回または3回タップするだけで、メモアプリやボイスレコーダーが即座に起動するよう設定しているのだ。あらかじめ起動までのステップを極限まで減らしておく。この刹那的なスピード感も必要不可欠なのだ。
第4の場所|鍛中
ボクはこの古典的なリストに、現代を生きるボク自身の生活環境に基づいた第4の場所を付け加えたい。
それが、鍛中(たんちゅう)すなわち、筋トレ。鍛錬の最中である。
なぜ、重いバーベルを上げ下げしている最中に、クリエイティブなアイデアが舞い降りてくるのか。そこには脳科学的なメカニズム、マインドワンダリング(心のさまよい)が深く関わっている。
筋トレは、極限の集中と解放のサイクルで成り立っている。
セット中、ボクの意識は筋肉の収縮、呼吸、関節の角度といった身体感覚に100%注がれる。このとき、脳内では余計な雑念が削ぎ落とされ、一種の瞑想に近い高度な集中状態が実現する。
そして、セットを終えた瞬間のレスト(インターバル)。ここで、張り詰めていた意識の糸がふっと緩む。この意識の解放こそが、脳のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)を活性化させ、マインドワンダリングを誘発するスイッチとなる。
マインドワンダリング中、脳はアイドリング状態にあり、断片的な記憶や情報同士を予期せぬ形で結びつける。この創造性の孵化(インキュベーション)こそが、新しいひらめきやアハ体験を生むのだ。
※ただし、ここで重要な注意点がある。マインドワンダリングは、あくまでレスト中に行うべきものだ。高重量を扱うセット中に意識がさまよってしまうと、フォームが乱れ、深刻な怪我を招く恐れがある。セット中は身体感覚に完全にマインドフルになり、セットを終えた瞬間にだけ、思考の翼を広げる。このメリハリこそが、安全と創造性を両立させる絶対条件だ。
鍛中を逃さないスタイル|最強のツール

デジタルが全盛を極める時代にあっても、ボクにとってジムでのトレーニングノートとロルバーン ミニという紙とペンは、自分にとって最強の組み合わせだ。
ダンベルの傍らに、重量やレップ数を記すためのトレーニングノートとともに、常にロルバーン ミニを置いている。メモできるものがすぐそばにあるという安心感がある。
ある日の筋トレ中のこと。ボクは「今後継続してジムへ楽しく通い続けるにはどうすれば良いか」をぼんやりと考えながら、新しいトレーニング方法を思い浮かべていた。

セットを終え、呼吸を整えるレスト中。そのアイデアが具体的な形を持って浮かび上がってきた。ボクはすぐさまトレーニングノートの余白に、その方法を走り書きした。
文字は乱れ、後で見返すと解読に苦労するような代物だったが、そこにはその瞬間の熱量と、思考の鮮度が封じ込められていた。もし、このとき手元にノートがなければ、そのアイデアはジムの冷たい空気の中に霧散していただろう。
場面ごとに最適な道具を選び、使いやすく整えていく。
このプロセスを経て完成したボクなりの仕組みがあるからこそ、身体を動かしながら生まれた泡をひとつひとつ丁寧に拾い上げることができるのだ。
バラバラに集められたこれらの泡たちは、Google Keepという一時保管所に集約されてから、ひとつひとつ丁寧に編み込まれ、豊かな人生の中に溶け込んでいく。
あなただけの魔法を逃さないために
ハリー・ポッターの生みの親、J.K.Rowling が物語の核となるアイデアを思いついたのは、1990年、マンチェスターからロンドンに向かう遅延した列車の中だった。
彼女の頭には「自分が魔法使いだと知らない痩せた少年」のイメージが鮮烈に浮かび上がったが、あいにく彼女は手元にペンを持っていなかった。恥ずかしがり屋だった彼女は、隣の席の人にペンを借りることすらできず、目的地に着くまでの4時間、ただひたすら頭の中だけでその泡が弾けないように膨らませ続けたという。
幸いにして彼女は、その細部を記憶し続けることができ、その泡を魔法へと変えることができた。だが、ボクたち凡人のひらめきは、そこまで強くはない。ペンの一本、ノートの一冊、あるいはデバイスの設定一つがないだけで、歴史を変えるような魔法の種が、一瞬で消えてしまうかもしれない。
ボクは、バーベルを置いたその手で、今日もペンを取る。パチンと消えてしまう泡を、一つもこぼさないように。
あなたにとっての三上はどこだろうか。
その瞬間に舞い降りる貴重な財産を、ドブに捨てないための網をあなたは張っているだろうか。
いつか、第2のJ.K.ローリングが登場する。
きっとそれは、これを読んでいる あなたかもしれない。

